これは、当ブログ最初の記事。
この中で「Zoographia rosso-asiatica(ロシア-アジアの動物学)」という本が出てくる。
極東を含め、ロシア帝国の生物について記載した図鑑で、後述するが結構有名どころの動物も載っている。
時代が時代だけにラテン語で書かれていて、そのうえに省略法がふんだんに使われていたおかげで、翻訳というか解読にえらいこと苦労した…という話は上の記事を読んでいただくとして。
今回はその著者、ペーター・ジーモン・パラスPeter Simon Pallas(1741~1811)について、色々テキストを読んでみたという話。
パラスという男
さて、Googleで単に「パラス」と検索すると、真っ先に表示されるのは間違いなくポケモンである。
フルネーム「ペーター・ジーモン・パラス」を入力すると、下のような人物が出てくるはずだ。
団子っ鼻、肩幅狭め。目が結構大きく描かれてるせいもあって、小柄そうに見える*1。
そんなパラスはドイツ(当時のプロイセン)出身で1741年生まれの動植物学者。
1767年に大帝・エカチェリーナ2世にサンクトペテルブルグ科学アカデミーに招聘され、1810年に職を辞してドイツに戻るまで、実に43年をロシアで過ごしながら、数多くの書籍を著し、様々な動植物を発見・記載したという。
ドイツに戻ってからは「Zoographia rosso-asiatica」の執筆に専念し、そのまま故郷で没した。この図鑑の3巻目が出版されたのが1731年ごろだから、没後20年かけてようやく世に出たということになる。まあパラスがプロイセンに戻ったのって、ナポレオン戦争起こってる頃だからな。
それにしても、エカチェリーナ2世か。
啓蒙君主を自負しロシアの近代化を推し進めた((((なお、啓蒙思想に傾倒していたのは在位期間の最初の頃だけで、フランス革命あたりから掌を返したのは結構有名))))プロイセン貴族出身のロシア女帝。
その女帝が故郷から招聘した、若手の動植物学者*2。
「女帝エカテリーナ」を読んでいた人間としては、あのマンガの背景にこういう人物がいたのか!と考えるとワクワクしてくるキャラ配置だ。
まあもっとも、今はこの方の絵柄で脳内再生されるのですが。
エカチェリーナ大帝に至るまで pic.twitter.com/5OMJK5OhQw
— 零 (@zero_hisui) 2021年9月14日
零さんの描くエカチェリーナ2世って本当いいよね!
女帝の趣味で異性装パーティーが定期開催される話(実話) pic.twitter.com/TBWQGuxk4O
— 零 (@zero_hisui) 2022年5月14日
個人的にはこちらも好き。
女帝と年下の親友の話。
— 零 (@zero_hisui) 2020年7月26日
エカチェとダーシュコワ夫人の地獄めいた関係性が好き pic.twitter.com/HtEAIOG57E
このダーシュコワ夫人ってのも設定てんこ盛りな人物ですよね。
姉がエカチェリーナ2世の夫の愛人で事実上のライバルだったとか、自分の一族が姉の味方だったところを唯一皇后に味方してクーデターの立役者になったとか。
ロシアが誇るSSR令嬢を喰らえ
— 零 (@zero_hisui) 2020年7月26日
(没年が超絶間違っていたので上げ直し) pic.twitter.com/AyomLpXiwz
生年はパラスの2年後で、没年は1年前。科学アカデミーの長官なので、パラスにとっては上司にあたりますね。
ああそうそう、本筋はパラスの話でした。閑話休題。
パラスの一生については日本語版Wikipediaの記事でひととおり読める。
読めるのだが、いかんせん概要過ぎて情報が少ない。もうちょっと詳細な話は読めないものかと、他言語版を読み比べてみることにした。
パラスで各国版Wikipediaを読み比べる
ということで、まずは英語版。
うん。だいぶん情報は増えた。著作リストのほか、記載したり献名された生物種の情報が加わっている。
エカチェリーナ2世の孫であるアレクサンドル1世とコンスタンティン1世の教師になったというのは日本語版にはなかった情報だ。
エカチェリーナ2世は息子のパーヴェル1世と折り合いが悪く、代わりに孫二人を溺愛していたというから、パラスがその教師に任命されたということは、かなり女帝に気に入られていたというのは容易に想像できる。
では出身国であるドイツ語版はどうか。
肖像画の肩幅が広くなり、首が長くなった。服や勲章といったパーツは共通してるが、全体的に大柄な感じになった。あと顔の彫りが深めで、鼻もなんか普通。
記事の方は…記載種や献名関係が減ったが、経歴の項にはロシアに行く前の人間関係や当時の情勢もうっすらうかがえる文章になっている。若いころは就職に困ってたのね。
このロシア行きを巡って父親と対立したっていうのは、やはり7年戦争の敵国じゃねえか!というのが大きかったのだろうか、どうも息子を手元に置きたかった感じだし...とか、ロシア東部への調査旅行もずいぶんなものだったらしく、関係者の記事も読んでいくと主要メンバーの一人が帰路の途中で自殺していた、いったいどんな旅行だったんだ…とか。
行間を読んだり背景を探ったり、人間関係を横に掘り進めていくのも面白い。個人の妄想の域を出ませんけどね。
さて、結果としてパラスに数々の業績を与えた国、ロシア語版を見てみると…
団子ッ鼻ぶりが戻った。これは英語版で使われてる絵画をもとにした点描画だろうか?
というかそんなことより。
記事、なっが。
パラスの一生はもちろん、業績の意義や家族構成にまで微に入り細に入り、事細かく書かれている。
日本語版Wikiでいうと日本住血吸虫の記事並みに気合の入りよう。
…フランス語版ものぞいてみるか。
これまた、そこそこに長いなあ。
パラスの分類方法についてキュヴィエが称賛したというから、その辺もあるのかもしれない。
各国の記事を読んでいくと、日本語版Wikiには書かれなかったパラスの人生や功績が浮かび上がってきた。
思ってた以上に巨人だった
以下、ざっくり年表形式でパラスの経歴および業績をまとめてみる。
- 1741年:ベルリンで医学者の息子に生まれる。
- 1760年:ライデン大学にて、19歳で博士号(医学)取得。(19歳)
- 1761年:オランダ・イギリスへの遊学旅行開始。(20歳
- 1762年:7年戦争の従軍医の職を父親に斡旋されベルリンに戻るが、出向のタイミングで戦争終結。生物の研究に戻り、息子を開業医にしたかった父親とギクシャクする。(21歳)
- 1763年:両親の許可を得てハーグに移る。独自の生物分類法を提唱。(22歳)
- 1764年:ロンドン王立学会とローマの科学アカデミー*3の会員に選出、名声が広がる。(23歳)
- 1766年:アフリカ~インド~東南アジアへの調査旅行を計画するが、父親にベルリンへ呼び戻されて頓挫する。年末にエカチェリーナ2世から教授職に任命される。(25歳)
- 1767年:任命を最初は拒否したが最終的に応じ、4月にサンクトペテルブルク科学アカデミー会員に選出。同年、プロイセンの将軍の妻(氏名は不明・子有り)と愛人関係になり、3人一緒にロシアへ移住。このロシア行きにより、父親と対立。(26歳)
- 1768年~1774年:エカチェリーナ2世が進めていたロシア国土の包括的調査プロジェクトとして、バイカル湖周辺までの調査旅行に参加。約29,000kmを踏破し、著しく消耗する。若白髪にもなる。この旅の中で大量の動植物標本を作ったほか、鉄隕石(パラサイト)を発見。(27~33歳)
- 1783年:16年間内縁関係だった妻と正式に結婚するが、3日後に妻が死去。マリア・エリザヴェータ・グランという女性と2度目の結婚をし、3児が生まれるが乳児期に死亡。この年、エカテリーナ・ダーシュコワがサンクトぺテルブルク科学アカデミー院長に就任。ロシア語研究について説き、ロシアアカデミーが設立される。(42歳)
- 1785年:エカチェリーナ2世が趣味で始めた比較言語研究に参加する。(44歳)
- 1786年:ロシア海軍委員会の歴史学教授に任命される。
- 1787年:カタリナ・イワノフナ・ポールマンという女性と3度目の結婚。(46歳)
- 1787~1789年:比較言語学の研究成果をまとめた「Totius orbis vocabularia(すべての言語と方言の辞書)」全4巻を発表。(46~48歳)
- 1792年:経緯の詳細は不明だが、公職から解任される。(51歳)
- 1793年~1794年:自費で調査隊を結成し、ヴォルガ~カスピ海~クリミア半島、黒海までの調査遠征に出かける。この旅の最中に凍った川に落ちて肺炎にかかり、以後健康状態が悪化する。(52~53歳)
- 1796年:エカチェリーナ2世からクリミア半島のシンフェロポリに地所と家を与えられ、移住する。同年11月、エカチェリーナ2世が崩御。(55歳)
- 1797年~:シンフェロポリの家にて、「Zoographia rosso-asiatica」の執筆に専念する。
- 1810年:サンクトペテルブルク科学アカデミーに休職を願い出、不仲だった妻を残し、娘とともにベルリンへ帰郷。兄と再会する。(68歳)
- 1811年:9月8日、死去(69歳)
こうして並べてみると、結構いろいろやっている。活動の範囲はかなり幅広い。1回目の遠征(1768-1774)では地理・地質・古生物・民俗など多岐にわたる範囲で資料を収集しており、動植物学者というよりは博物学者という表現の方が適切ではないか。
「Zoographia rosso-asiatica」を含め、ロシアの生物学をはじめとする学問の根っこに大きく貢献した男だったのは間違いない。思ってたよりスケールがデカかった。
エカチェリーナ2世が始めたプロジェクトに、専門外なのに参加させられているところを見ても、彼女の信頼は厚かったことが窺える。というかエカチェリーナ2世の行動に同郷人相手ならではの気安さも感じる。
女帝の孫の教師を務めつつ、パーヴェル1世への代替わり直前にサンクトペテルブルクを離れていて、政争に巻き込まれることもなかったあたり、運もありそうだけど世渡りはうまくいった方ではないだろうか。川に落ちて健康を害していなければ、もっと他の業績を残したかもしれない。
最晩年のロシア帰郷は、放蕩息子の帰還な感じもあって(別に放蕩はしてないが)ちょっとしみじみしてしまう。
しみじみ感じるといえば、ロシアによる極東アジア進出の本格化。
パラスが参加した遠征がまんまそれだからね。体力さえ持てば中国に行こうとすらしてたらしいし。
パラスと同時代に起こったロシアがらみのイベントを日本史で拾ってみると、
- はんべんごろうことモーリツ・ベニョヴツキーが徳島に漂着したのが1771年。
- 林子平が「海国兵談」を著したのが1786年。
- 大黒屋光太夫が難破してロシア領にたどり着き、エカチェリーナ2世に謁見したのが1791年。
- レザノフが長崎に寄港したのが1804年。
- フヴォストフ事件が起こったのが1806年・1807年。
- ゴローニン事件が起こったのが1811年。
後の方になってくると各地調査という基礎固めも終えて、人と船を送り込み始めている。対する日本の首脳は鎖国一筋の徳川幕府、率いるは倹約家の松平定信。よく侵略されずに済んだな。
パラスはそんなロシアの拡大にがっつり貢献した人物ということになる。
そんなロシアにとっての大偉人であり、エカチェリーナ2世がオスマン・トルコからもぎ取ったクリミア半島(また…)で長く過ごした男・パラスが記載した魚の一つが、Salvelinus curilus。種小名の由来、言わずと知れた北方領土のロシア名。
ここまで書いてきて思ったけど、オショロコマって魚、プーチンロシアのナショナリズムと関係ありすぎじゃね?
Salvelinus malma krascheninnicoviの由来となったクラシェニンニコフってのが、これまたシベリアを探検したロシア人の名前だし。
なんか、分類の妥当性はおいといて、オショロコマはうちんとこの魚じゃとロシアに言われてるような気分になってきたのは私だけですかね。
くわばら、くわばら。